令和元年度講演会 大澤佳寿子氏 (2020年2月22日)

講師 大澤佳寿子氏:伊那市教育委員会生涯学習課教育振興係 文化財学芸員

演題 「高遠藩の参勤交代について」

講師:大澤佳寿子氏

(伊那市教育委員会生涯学習課教育振興係 文化財学芸員)

高遠郷土研究会 北原紀孝会長挨拶

講演会投影資料:表紙

講演会投影資料:目次

講演会投影資料(抜粋):高遠藩内藤家 参府・帰城の行程図

講演会投影資料(抜粋):内藤頼卿公 御初入之図

講演会投影資料(抜粋):内藤頼卿公御初入之図《御本陣》

講演会風景

講演会出席者:41名

会員研究発表会 寺田利男氏 (2019年11月16日)

研究テーマ:「日本の学の流れの中の高遠の学について」

講師:寺田利男氏(高遠郷土研究会会員)

研究発表会の資料

ふきのとうの会 地区外研修会 (2019年10月15日)

※10月15日に行われた、「高遠案内『ふきのとう』の会 地区外研修会」の写真を掲載します。

浄土宗白心寺境内にて(参加者一同で参拝させていただきました)

「徳本上人六字名号塔」

文化13年(1816年)に上人自らが開眼供養された。

「浄土宗白心寺山門」

文化14年(1817年)に、高遠藩主・内藤家より寄進されたもの。高遠城追手門と同じ造りと伝えられている。

門扉を設けず、だれでも参詣できる造りとなっている。

(白心寺資料より)

「従是北 高遠領」の石抗(津島神社)

津島神社社殿にて、参加者集合写真

「正木屋(まさきや)」

主屋は明治期、左右の土蔵は江戸期のもの。

増屋と並ぶ造り酒屋だった。

「水戸天狗党 武田耕雲斎書」(正木屋所蔵)

「銭屋(ぜにや)」

明治23年の大火の後に建てられた土蔵造りの町屋。

両側に類焼を防ぐための袖壁がある。

宿場の中央に位置する豪壮な建物。

「増屋(ますや)」

宝永元年(1704年)からの宮田村最初の造酒屋。

主屋を取り囲み数棟の土蔵が並ぶ姿は壮観。

タカノ(株)の敷地内にある蔵にて

高遠郷土研究会 現地研修会 (2019年9月29日)

※9月29日に行われた、現地研修会の写真を掲載します。

塩供集落 守谷貞治・道祖神花文字

(説明する北原紀孝会長)

塩供集落 守谷貞治・道祖神花文字

(現地研修会参加者)

秋葉道石灯篭・宿場跡

諏訪大社 奉安殿

(戦前の日本にあった、天皇と皇后の写真〈御真影〉と教育勅語を納めていた建物)

 

道案内碑の前で 

(諏訪道 江戸道 ぜんこうじ道)

馬頭観音碑・岡村菊叟筆

(現地研修会参加者)

 

岡村菊叟(1800~1884年)

江戸後期の高遠藩家老、地場産業の育成、国学者、忠香・養老と号した。藩政の改革に貢献した。

絹織物、笠原紙、高遠焼、高遠石灰など明治から昭和に至るまで続いた産業がこの時興された。

 

千代田瑚近くの山の地蔵尊

金鶏金山にて

芝平分校・芝平の里にて

高遠郷土研究会研修旅行(2019年6月10日)

※6月10日に行われた郷土研究会研修旅行「武田家滅亡の道を歩く」の写真を掲載します。

岡崎城にて

徳川家康 産湯の井戸

産湯の井戸

 

天文11年12月26日(1542年)徳川家康公が岡崎城内で誕生した。

この井戸の水を汲み、産湯を使用した。

長篠・設楽原合戦屏風絵図

設楽原古戦場に掲示されていた屏風絵図

設楽原古戦場馬防柵前にて

馬防柵前での参加者集合写真

 

《馬防柵》

 天正3年(1575)「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したもの。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを区別して構築してみた。

両者の様式には、攻口(出入口)の設け方に違いが認められる。

 当時、天下無敵と謳われた武田の騎馬隊をこの棚で防ぎ留め、その内側にあって鉄砲で狙い撃ちにするために造られたもので、延長2粁余に及んでいた。

 決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背景の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。

 織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては勝利を阻む痛恨のしがらみになったのである。

「設楽原をまもる会」説明文より

馬防柵と北原会長

馬防柵を見学する郷土研究会会員

《鉄砲構え》

 

 天正3年(1575)新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」。

 乾堀と馬防柵と銃眼付きの身隠し(土塁)の三段構えであった。

 古文献と時代考証による復元である。

「設楽原をまもる会」説明文より

長篠城址

長篠・設楽原合戦屏風絵図(長篠城址史跡保存館)

《要衝》

 長篠の地は、豊川を遡って約25㎞、長野県・静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移ってゆく。

 江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。

 戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる境目の城であった。

 

《要害》

 長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。なお、本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は棚または屏で囲んだ。

 平地へ移って来ても、できるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。

 

《土居と堀》

 この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で天正3年の姿を残している。右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが、井戸時代に崩されて今はない。

 堀の土は、かき上げられて土居とした。堀には水を引き入れた。

土居と堀は直線に進まず、直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り替る姿を見せている。

(長篠城の説明文より)

開善寺

開善寺の山門(重要文化財)

開善寺本堂(江戸時代に建立)

開善寺鐘楼

(梵鐘は1582年に織田軍に持ち去られ、現在は伊那市高遠町の桂泉院にある)

「保科正之公を偲ぶ会」集合写真と講演会の様子 (2019年7月6日)

高遠郷土研究会会員の集合写真

(本年度は25名が参加しました)

保科正之公を偲ぶ会 講話:「伊那街道について」

講師 伊那市教育委員会生涯学習課 牧田 豊氏

講師:牧田 豊氏

(於:樹林寺)

講話の一場面

受講風景①

受講風景②

高遠郷土研究会

所在地:長野県伊那市高遠町西高遠1806 高遠町総合支所内

担当:山﨑 メール:takaoyamazaki@outlook.com